2005年10月31日

初とうげ越え。

zukanさんと山の追加調査に行ってきたmittamです。私は生まれて20年京都に住んでいながらあまり山科に訪れた記憶も無く、まして峠を越えて山科に行ってみようなんて思いもしなかったわけで・・・。初めての東山峠越えは、とても強烈でした。住宅の一角を一回りするだけで冒険が出来てしまう不思議住宅に出会ったり、私にとって新しい発見で楽しく歩けました。あの場所に出会うまでは・・・。

IMG_0004.jpg


IMG_0007.jpg


ふと見つけて、zukanさんに「鳥居ありますよ!」と言ったのが恐怖の始まり。後でよく見ると鳥居についている看板が外れていたんですね。そう、zukanさんの書いている「廃・神社」だったのです。霊気か冷気かわからないような寒気のするその場所は凄まじい光景でした。暗くてよく見えないところが余計に恐い・・・。傘にしがみつき、写真など撮れる場合ではありませんでした。ちょっとアレは上級者過ぎです。東山へ戻る街道を歩いているときもぶり返してくる恐怖。高台からみえる京都盆地と京都タワーにホッとする自分。京都タワーが愛しく思えたのははじめてかもしれません。
峠越えを終え、変な度胸とビビリ症を身につけてしまったような気が。私の中で東山と山科がつながって強烈にインプットされました。

奥に京都タワー.jpg

posted by mittan at 22:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 調査 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

レイアウトてんやわんや〜文字いろいろ〜

今号の特集は、「地形編」、「都市編」という大きな枠組みがあって、その下に詳論となる記事が集まるというツリー構造を持った構成になっている。各記事は「地形編」「都市編」という大きな枠でまとめられてはいるが、記事どうしのつながりはそれほど無いから、どこからでも読み始めることができる。その構成をつくるためには、各記事にシンボルとなるような記号を付けて各記事を自律させるようにしたい。

絵よりも漢字一字でキメたい。しかも単なる文字でなく絵としても興味深いもの。それなら古代文字がいい。甲骨文字が漢字の祖形だと言われているが、「池」という文字は無い。後世の金文、古文でも無い。しかし、篆書なら必要なもの全部揃う。

篆書は、殷代に文字が現れて以来のものを含んだ総称だと言われるが、様式として定着したのは西周以降(前8C)。秦の始皇帝の国家樹立(BC221)に伴い文字政策を推進し、「小篆」として後世文字の基本となった。漢字の歴史は白川静、西川寧らが詳しい。

篆書の特徴は、隷書、楷書と異なり、抑揚の無さにある。隷書、楷書のように止め、払い、といった動的な動きが全く欠けている。非常に静的で記号的である。隷書、楷書が一画一画のドラマだとすると、篆書はその形態で静かに迫ってくるような趣きがある。

これなら簡単そうだと思い自分でも書いてみたが、筆の入り方からしてうまくいかない。篆書では線の末端は丸く納めないといけないが、どうしても筆の動きが出てしまう。邪道だが、マジックで書いてみた。結構うまくいく。しかし、今度はなめらかな線の動きが出ない。

今回各記事に漢字を記号的に配置するということで、初めて漢字について調べる機会を得たが、篆書を見たときはこんな文字があるのかと感動した。篆書といっても「小篆」を基本として様々な変化形がある。しかし、泰山刻石に残る「小篆」は、他のどの篆書よりも整然とした体裁があって、どの一画も少しも動かせないような完成されたプロポーションを感じた。

家 盻書のコピー.jpg


泰山刻石 道.jpg




posted by 芳雄 at 22:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 編集 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

東山峠越えに、5年の月日を想う。

 先日10月29日、「げのむ6号」特集の「みやこきわめぐり、地形編=山」(仮題)の追調査を行った。朝からあいにくの雨。ただでさえ薄ら暗い東山峠道は究極のどんよりさで僕らを迎えてくれた。

同行したmittanさん(以降敬称略)は、始めての東山越えということだったが、僕は物好きにも大学博士時代にこの地を調査地区としており、馴染みの地区であった。しかしながら大学を去ってからは訪れることも少なくなり、今回は5年振りの来訪となった。

 峠付近にさまざまな「お気に入り」の場所を知っていた僕は、峠初体験のmittanに先輩ぶっていろんな「お気に入り」(とはいえ、大概が気味悪い廃屋とかなのだが)を披露しようと秘かに張り切っていたのだが、、、

 峠付近で「お気に入り」を探すも見つからず。最初は「まあ、ひとつくらいなくなってるのは仕方ない」とある程度ゆとりを持っていたのだが、次ぎ、また次ぎと「お気に入り」は姿を
消していた。「前は本当にあったんやけどなあ。」と「単なるモウロク」にしか映らない間抜けっぷりを、たっぷりmittanに披露する羽目に。崖に面して建っていた2階建て木造六角地蔵堂(崖上の2階と、崖下の1階部分をそれぞれ別ルートで参拝できた)が単なるコンクリート擁壁に変化して消失していたのには、正直、こたえた。

 消失してしまった彼らを見つけて、「お気に入り」にしていたときは5年前。そもそも自分だけの「お気に入り」なんてのは、感傷と、フェティシズムと、おそらくは幼少期のトラウマを絶妙にブレンドした結果、目の前の物象に過度に感情移入してしまったものなのである。だから見つけた後も、しばらくは恥ずかしくて人に紹介できないし、写真に残すのさえ躊躇してしまうのだ。少なくとも僕の場合は。

 しかし、亡くなって始めて気がつくのだ。僕の感傷なんかと元来関係なく、彼らは在って、しかも彼らが生まれ姿を消していくのは大きな「都市の事件」なんだと。僕のしょぼい感傷のせいで「彼らが在ったこと」を記録しなかったことは、最大級の罪であった。都市の観察者として。一概には言えないであろうが、5年という時間はちょうどそんなことに気付き、しかも彼らが姿を消すからこそ気付いてしまう周期なのではなかろうか。

 今回の探訪中、偶然、震え上がって死んでしまいそうなくらい気味の悪い「廃・神社」に出会った。廃虚はよく見かけるが、「廃・神社」なんてのは初めてである。人目につかない谷の中で、無数の人の欲求、願望、怨念が渦巻くのが肌から冷気とともに感受できるような、そんな場所だ。峠はじめてのmittanだけでなくそれなりに熟練の僕にとっても耐えようのない恐怖に襲われた。この場所もまた、否応なく脳内の「お気に入り」にエントリーしそうであったが、、、。その時、ふと、この地の5年後を想った。断言できるはずもないが、おそらく彼でさえも5年後、此所にとどまることはできないであろう。再訪した僕はまた記録しえなかった僕を呪うのだろう。

 というわけで、恐怖をふりはらい、この地を記録する覚悟をした。後日また記録結果を報告するかもしれない。

 5年振りの峠で姿を消した彼らを目の当たりにして、今度の5年後には少し違った想いで、この峠に足を運びたいと感じた、そんな33歳の秋。


 
posted by zukan at 14:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 調査 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年10月23日

突入・東一口(ひがしいもあらい)

 「げのむ6号」の連載記事「通りゃせん」の調査取材で、久御山町にある東一口(ひがしいもあらい)という元・漁業集落に行った。

東一口は昭和7年の巨椋池干拓以前は全戸の9割以上が淡水漁業で生活を営んでおり、現在は東・西の9集落にわかれ、戸数198戸・人口約800人の東西に細 長く家並みがつづく堤防集落である。干拓後は農村に転換したが、街村状の集落構造には漁村時代の面影が残る。後鳥羽上皇の時代に巨椋池の漁業権を与えられ、干拓以前は池周辺の漁村の元締め的存在だったそうな。
  インタビューでは祭りのしきたり、名産品の聖護院大根、昭和28年の伊勢湾台風による巨椋池復活の様子などが聞けた。ちなみに阪神の片岡選手はこの村の出身だそうな。
 村名の由来は「忌み洗い(いみあらい)」が転訛して「芋洗い(いもあらい)」となったが、集落の立地条件(入り口が一つ)から「一口」という字が当てられたらしい。うーむ土地に歴史あり。

結合.jpg
posted by cdl at 20:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 調査 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。